徳川幕府は1867年(慶応3年)10月14日に幕を閉じ、翌年、明治天皇が即位。明治になると版籍奉還や廃藩置県に伴って中央集権制度へと移行、地域閉鎖性が取り除かれて営業の自由が実現しました。
明治政府は「富国強兵」「殖産興業」をスローガンに、産業育成による近代化を目指して西欧の先進技術導入を進め、官営模範工場の設立や専門技術をもつ外国人の雇用などを行いました。当時、生糸が輸出の中心的素材でしたが、綿紡績業においても、1882年(明治15年)の大阪紡績会社の創業を皮切りに、大型輸入機械を導入。近代的な綿紡績工場が次々と開業されて飛躍的に生産量が増加し、1890年(明治23年)には国内生産量が輸入量を上回りました。
この頃には、繊維産業の輸出に占める割合は5割を超え、製造工業生産額に占める割合も4割強となっており、繊維産業が日本の資本主義経済発展の牽引車でした。一方、情報、物流、販売網を築き、繊維製造業の成長を牽引したのが問屋や商社でした。当時の織物問屋には呉服商、木綿太物商、洋反物商の3系統があり、呉服問屋は扱い品種により関東織物、尾濃織物、京呉服、関西織物の4つに分類。繊維流通業界の中心は、大阪、東京、次いで名古屋でした。
名古屋の有力な織物問屋は、問屋資本をバックに不動産投資を行うとともに、金融業、製造業にも参加、名古屋財界において強力な発言権を持ちました。また、同じ頃、我が国初の外国航路を開いた三菱商会をはじめ貿易商社が幾つも誕生しました。